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2018年4月26日木曜日

2018年4月22日三宅島例会

三宅島例会。三本に渡る予定だったが。渡船が減ったこともあって満杯ということで地磯のつもりだった。ところが、ポイント磯の例会が荒天で一週延期。ウチと同じ日になった。ポイントの高尾会長と話したら、坪田港の光明丸に便乗できることになった。だが海が荒れて地磯渡船となった。イシモノ組の長谷川と会長の阿部はツル根に。加藤、上原のメジナ組はヤシイケ。この経緯を書くだけで紆余曲折がメンドクサイことオビタダシイ。フーと一息。

ツル根は普通は歩いて行ける釣り場である。若いころは普通に行けた。歳を取ると簡単ではない。
ツル根のタイドプールは柔らかい最上のモクが繁茂して有名な場所だったはず。ホンダワラである。カシカメ釣りのエサに最良。ところがほとんどない。底が見えている。採り尽くしたのか。
錆港の2船は荒れた海を三本に行った。坪田港の光明丸は本来は目の前真っ直ぐに位置する御蔵島渡船を本務とする。錆港の沖合いの三本に向かう場合は錆港渡船に対して遠慮するのだろう。無理してまで行かないという慎重さと安全重視もある。
船長に、お年はいくつになられましたかと聞くと、85歳だそうだ。古くから光明丸を使っていた日本磯釣連合の名門であった関東磯釣クラブのお話をした。懇意にしてもらった関東磯の会長だった市村さんは90歳になり、引退して久しい。三宅島例会の数日前に久しぶりに市村先輩と電話でお話をした。いろいろ教えてもらった大先輩だ。光明丸で一緒に御蔵島にも行った。市村さんの近況は光明丸の船長も懐かしがった。時の流れは誰もどうにもならない。
市村さんに気になっていたことを聞いた。日本磯釣連合は解散して久しく、中心であった名門の日本磯釣倶楽部も磯釣同和会もすでに解散。関東磯も解散状態だが、平林さんを中心に残ったお年寄りがたまには動いているらしい。全磯連の現況より古いのだから仕方がない。

ツル根先端はかろうじて波が洗わない程度の波、ウネリであった。エサは松半のお任せセット。ガンガゼ、小さなイセエビ、小さいマガニ、大きいイソガニ。残念ながらアタリなし。
メジナ組はツル根に近いヤシイケという磯。ソコソコ釣れた。

特筆は三宅島でクロダイが釣れたこと。聞いたことはあるが現実に見たのは初めて。生息数はかなり少ないのだろうね。


メジナ1位は加藤さん。42.3cm。

メジナ2位は上原さん。39.8cm。

橘丸が三池港に入ってきました。

東京湾に入るころ、きれいな夕焼けが我々を迎えてくれました。






2018年4月17日火曜日

先達の磯釣その6


戦後の磯釣りを集約して、磯釣り入門者を啓蒙した先達は何人もいらっしゃるが、著作に限ればこの人の右に出る人はいない。永田一脩さん。名前は、かずなが、と読む。わたくしには、ながたいっしゅうさんの方がすんなり。1903年生まれ、毎日新聞を1958年定年退職。日本磯釣連合が分裂する前まで全磯連相談役。名門の磯釣同和会の人でした。ここの通称は、いそどー、です。ウチの会と同じく、三宅島では今はなき阿古食堂が定宿でした。いそどーの方がいらっしゃった場合は、敬意を表し、三歩さがったものです。でも、ご本人はわたくしが入門したころには磯釣りはほとんどやっていなかったのじゃないかな。1988年に亡くなった。東京美術学校西洋画科を出た。今の東京芸大です。写真家でもありました。ライカⅢFとローライフレックスを使った。門外漢には分からないだろうが、これがまた、左様でございますか、それはまた、そうでしょう、そうでしょう。よろしゅうございますね、まったく、、、というような感激、共感なのである。ローライフレックスはなんとスタンダードで、テッサーの4.5という渋いところ。ライカはエルマーとズミクロン。キヤノンの広角。
今回は最初の本から3冊目くらいまでを紹介する。最初は1960年「山釣り 海釣り」(山と渓谷社・480円)写真は説明レベルではなく作品レベルでとても良い。磯釣り入門記という項に昭和24年、ご本人のはじめての石鯛釣の文章がある。1949年だ。興味深い内容。真鶴の釜ヶ淵に行ったそうだ。


石鯛竿を曲げているのは長岡輝衛。石鯛釣りの理論家として有名。伊豆中木の白根で1955年5月。この写真も有名でよく知られているのではないだろうか。長岡氏の石鯛は1貫500匁。白根はたまに乗りますけど、磯はまったく変わっていない。

この写真もいいですねえ。1956年。下田神子元島に渡る途中で後ろに見えるのは横根ですね。特徴がありひと目で分かります。この渡船と船頭が良い。わたくしでも入門時代はこれに近いものがありました。操船は梶から梶棒が伸びていて、船頭は足で梶を切った。バレーダンサーのように。なにをいっているのか分からないだろうな、きっと。

寒鯛を持っているのは緒方昇氏。毎日グラフの編集長だった。1956年正月、伊豆大島の裏磯で炭焼き小屋を借りて釣行。2貫500匁。詩人でこの人の釣り本もよろしいものです。
漁村の風景。遊ぶ子供。1959年中木。この感じ。いい写真です。

1963年「入門 山釣り海釣り」という、文庫本。山渓文庫(230円)。前記の本の技術解説のつもりで書いたという。渡船風景では延べ竿を束ねているのが目だちます。この渡船は現在から見ると、いかにも危ない。これに近いのには乗ったことがありますが、これはちょっとね。昔の渡船は舳先に手すりがない船がたまにありました。

1964年「釣りの世界」(ひかりのくに昭和出版・400円)。エッセイあり、日記風あり、各論の序論といったのもあり、たいへんにおもしろい。
この中に絵画史、写真史、写真術、登山、釣りといったものが好きで新聞社時代の家計は苦しかったとある。昭和34年ころ、新聞社の月給4万円。当時テレビディレクターは本給2万3千円、残業、休日出勤併せてやはり4万円という時代だったそうだ。石鯛釣り道具一式の概算は約2万円。スキーも同じくらいで他の娯楽道具より高いとはいえないとある。一回の出漁は、交通費千円。釣り宿700円、渡船500円、エサ1200円だそうだ。食事その他で5千円は持っていく必要がある。4万円の中堅サラリーマンで月5千円の小遣いは許される娯楽であろうと書いている。現在はだいたい8倍から10倍かな。新聞社、テレビ局だとすると月給はもっといくだろう。現在、神津か銭州の下田夜行日帰りで5万円持っていく必要があるのが現実だ。ゴルフより高いといわれる。

この釣り宿の写真も有名。いそどーの磯師でしょう。

先達の磯釣その5


釣り人、釣師の遊漁としての磯釣だけに限定すると、その歴史は一般的には戦前のそれほど古い時代には遡らない。まず、昭和初頭あたりではないかと思われる。だが、クロダイ、カイズ、あるいはスズキ、セイゴの内湾、堤防などの遊漁は明治、大正にはすでに盛んであり、明治の幸田露伴を見るまでもなく、その前の江戸時代の「何羨録」、「漁人道しるべ」、「釣客伝」、「魚猟手引き種」に散見される。
  
これらの書は「江戸釣術秘伝」、小田淳現代語訳、叢文社、平成13年発行、定価2600円に
められている。

また、何羨録だけなら、「何羨録を読む」副題が日本最古の釣り専門書、小田淳著、釣り人社、1999年発行、定価950円があるが、半分以上が解説ページである。

カイズ、クロダイ釣りではなく、ブダイ釣、メジナ釣ならば磯でしか釣れないから、どこかに出ていないかなと、斜め読みでザット見直したが、どうもどこにもないようだ。

津軽采女正の「何羨録」は享保8年、1722年とか。采女正の最も中心的な釣は江戸前のシロギスであったようだ。まれに1尺2寸のキスと、書いてあり、漁師は海キスのことをシロギスといい、川ギスのことを青ギスというとある。漁師はシロギスとアオギスの違いを判別していたと思われる。青ギスは非常に浅いところで釣ったそうだから、川ギスと呼んだのもうなずける。9寸以上のキスが鼻曲がりとある。シャケの鼻曲がりは有名だけどキスでもなのか。江戸前の釣り場はとても詳しく書かれている。

「釣客伝」は黒田五柳著で文政年間、1818年から1830年だそうだが、銚子のスズキ釣、小田原のカツオ釣からシイラまでの記述がある。漁師の釣りの伝聞のようだ。しかし、箱根湯本塔ノ沢の川釣は遊漁の案内と思われる。裕福な町人の旦那衆は温泉がてらにこのあたり釣ったのかも知れない。江戸末期だけどすごいね。

それから江ノ島のアジ、サバの乗り合い船釣というのがある。遊漁で、三人か四人。これもすごい。さらに大磯のワカナゴ(ブリの当歳で、今はワカシというのかな)とクロダイの釣は永田一脩の書いているオオナワの源流そのものであるが、セミプロまたはプロの釣のようだ。オオナワの略図がある。四間の竿(7.3m)で

長いバカ(全長24m)を出すのが特徴で、永田の本では詳しく書かれていて、ループを出してフライのように打ち込むことが分かる。この図では分からない。仕掛けは羽根を出した牛の角とあり図があ

る。この針は角と呼ばれるルアーである。釣客伝では14人から20人が立ち並ぶと書かれている。ナブラを釣る釣りであるから、繰り返す多数の打ち込みが効果あるのかも知れない。

磯釣では江ノ島岩屋前の釣りとあるが、多分磯釣だろう。9尺の竿、いそめ餌、ウミタナゴ、ショウサイフグ、アイナメ。なんとウミタナゴが出ている。ウミタナゴ、いいね、すばらしいね。ワタクシも竹の継ぎ竿でやるこの釣りは大好きだ。
さらに、さらに、同場所のタイ釣り。クロダイかも分からない。暮れ方より夜の10時ころまで、行灯を持って岩の先端に出て、三間から四間の竿、針元の鉛5匁から6匁、餌はシコイワシ、クルマエビ、魚の腸、魚の大小は1尺5、6寸まで(45cmから48cm)。明け方の時刻はとくに良い。大波が打ち上げる場所で、不慣れの人は無用である。とある。おお、すばらしい。こんな釣りがあったのだ、感動モノだ。もしかしたら、素人ではないかも知れないが、これが記録に残る磯釣の源流ではないだろうか。
神奈川の根釣は遊漁の船釣の王と書かれ、本牧沖などで、沖釣り場まで3里から4里(12から16キロ)二人船頭で船賃は一分金とある。江戸から神奈川というとそれだけで前夜一泊だろう。近場の江戸前の釣宿の船ならかなりあったようだ。

すでにキスの脚立釣や釣下駄の釣も盛んだった。五柳はどうもスズキセイゴの釣にもっとも意を注いだように感じられる。



先達の磯釣その4



松崎明治は早稲田大学から朝日新聞入社の新聞記者。文化部で美術から釣まで担当した。商学部と文学部哲学科を卒業。ワタクシの大先輩であるが、哲学科となると恐れ入りましたと最敬礼しかない。そのくらい哲学科は偉い。報知新聞で釣を担当した佐藤垢石に比べると、垢石の読み物風に対して、明治は釣という文化や技術を正確に伝えたいという思いがあり、よく整理され、網羅しようとする意思が感じられる。であるから、長くに渡ってあらゆる釣のバイブルとして尊重された。

垢石への対抗意識だろうか、自序に次のように書いている。

「今日迄、釣に関する著述は決して少なくない。但し徒に著者自身の感興を冗長な筆にのせて弄んだ釣の随筆はあっても,広く全国釣り人のために釣魚全般にわたる調査研究をまとめ、釣行の親切な伴侶となる必携書(ハンドブック)は誠に稀である。本書の第一の目的はこの欠陥を補うにある」。


戦前の松崎明治の復刻版ならウチに二冊ある。ひとつは昭和17年10月朝日新聞発行の、「釣技百科」。定価は4円80銭。950ページ余の大著である。昭和54年、アテネ書房による復刻版となって再び現われたのだ。辞典のように数回引いたことがあるが、通して読むようなものではない。なんと、この本もオリジナルは戦時下の発行であったことになる。はしがきに明治は「全国各地の釣技の踏査を年来の宿題としてきた」と書いている。昭和17年7月20日、海の記念日、著者識す。とある。



この本は昭和13年の同じ松崎明治による釣百科を底本としていると見られている。ややこしいが、昭和13年の釣百科の方は戦前に12版重版された。戦後もなんと佐藤垢石の補による増補版が発行されメートル法に直した「新釣百科」が昭和36年再増補改訂版であり、これがウチにある。名前が似ているが、昭和13年が「釣百科」で、昭和17年は「釣技百科」であるのでお間違いのないよう。

「釣技百科」ではイシダイの地方名がある。調査してまとめているわけだ。東京でイシダイ、大阪と和歌山でウミハス、淡路でバス、富山でタカバ、愛知でナベダイ、紀州田辺でナベダイ、愛媛でコリイオ、鳥羽でナベ、鹿児島でシシャ、高知でコオロウ、伊豆江の浦でシチノジ、などなどきりが無い。イシダイ釣りは伊豆八幡野、紀州(ハス釣)、薩南沿岸(チシャ)が紹介されている。

八幡野は頑丈な四間半の延べ竿(8.1mである)にバカを二間くらい出して竿下の深場を狙う。水深10mである。

紀州は三間のリール竿でウキ釣りである。

薩南沿岸は800匁以下の中型以下を主に狙ったそうだ。3キロ以下である。五間の延べ竿でバカを一ヒロ。この地方は合衆国に出稼ぎした者が多く、米国リールを取り寄せ使っていた、とある。しかし米国リールは大型すぎるので国産五分幅中型リールを使うようになっているとある。五分幅とは1.5cm幅の小さいリールである。片軸リールと書いていないので両軸リールだろうから、オリムピックのシルバーフォックスあたりかも知れない。リールが弱いので糸巻きとしての用法であろう。300型ならもっと幅広だからである。それでもリールで直接釣るようなことはできない。糸を手で引き抜く方法だろう。


友人から頂いた。彼の父親が使っていたというシルバーフォックス

昭和17年の「釣技百科」と戦後の昭和36年の「新釣百科」を読み比べると、図版と文章はそのままというところが多い。しかし、イシダイは半分以上書き直している。ブダイは8割りくらい同じかな。昭和36年と平成の現代との差異の方が大きいかも知れない。ということは13年、17年、36年と大部分は同じ図版、文章が流れているといってもよい。

昭和36年の「新釣百科」は非常に細かい文字でなにからなにまで書かれて、つめこまれている。釣の百科事典である。その当時、いや戦前戦後かなり長い間、釣本の決定版とされていたのがよく分かる。魚拓の取り方から、餌の研究から、釣り人料理から、気象信号まで。



もう一冊の復刻版は、写真解説日本の釣。松崎明治著、昭和14年5月三省堂発行。定価3円50銭。この他に釣の写真は永田一脩や高崎武雄の撮影したものが本になっていて見ることができる。どちらも写真家だからまことに素晴らしい写真だ。しかし、ほとんどが戦後の写真だろうと思われる。戦前の釣の写真でまとまっているのは、松崎明治が撮影し、書いたこの本しかないと思う。新聞記者として日本全国の写真撮影もこなしているのは見事だ。



それで、この本の中に南伊豆石廊岬の磯釣という写真があった。これがなんと延べ竿のブダイ釣りの写真。この人はなんと普通のオーバーコートを着て釣りしている。人相風体が、どうも、レレレレとしか思えない。どこかの会社にいくらでもいるような人だ。この人はそのまま現代に来ても通用する。石廊崎で延べ竿を借りたのだろうか。



また、東海道の車竿という写真があった。昭和14年である。沼津千本松原の餌屋の店頭だそうだ。いろいろなリールがある。両軸のダイレクトリールのようなものが2台ある。一番右と3台目である。後はタイコリールのようだが、フライリールのようなものもある。次のように書かれている。

「リール竿は輸入された釣りの形式であるが、道糸を巻くに車を使うことは北海道と台湾にある。日本本土の両端に車竿があって(台湾は日本本土であったのだ)内地には古来リール式のいわゆる車竿のなかったことは面白い現象だ。ところが、近年東海道一帯の沿岸に車竿が流行し始め、お手の物の箱根細工で精巧な車ができ、最近では東海道一帯が車竿の発祥地のように考えている人さえあるくらいだ。台湾の車竿はシナから渡来したとか言われているが、沼津の車竿はあまり古くないころ北海道の釣り人が伝えたということだ。最近では北海道製や内地の製品ばかりではなく、いろいろの経路を経て素晴らしい高価な舶来リールまで現われ、毎日2、300人の車竿利用者が腕前よりもリールの自慢をしているような有様である。」

うーむ。この写真はすべてクロダイ用と思われるが、タイコの横転リールで投げ込み釣りもかなり普及していたようだ。オリンピックのリールは大小8種類が生産されていたと釣技百科にある。また、日本製木製リールも普及していたようだ。



釣技百科の口絵には沼津防波堤の黒鯛釣という写真がある。右の人はタイコリールで左の人はダイレクトリールのようだ。右の人の竿のガイドが見えない。もしかしたら中通しかも知れない。以前記事にした例の竿の走りかも知れない。

2018年4月15日日曜日

先達の磯釣その3


「磯釣大物釣」現代日本の釣叢書。出版は水産社。著者はというと、辻本浩太郎、小林忠雄、船橋貞雄、益田甫という4名の共著。あんまり聞いたことがねえなあ、どんな人なんだい。というのが普通だろう。磯釣に関しては古今東西、たいていの書物は目を通している。というのはオーバーだが。といってもそれほど入れ込んでいるわけではないが、なんとなく程度でも長期にわたっているので、まあ一日の長ありかなと自負する小生であっても、船橋貞雄は「水の趣味」編集長で竹竿を自作していたとおおよそ知っている程度。益田甫はかすかに、どこかで名前を見たことがあるかないか程度。他は知らない。現代の普通の磯釣師ではまるで知らないのが普通。


この本も、実は昭和17年7月25日発行なのだ。定価は1円30銭。げげげ、これも戦争が始まっているじゃないか。よくこんなものが。当時、非国民と糾弾されなかったのかなあ。国家総動員体制の下で許されたのが不思議。釣り人の無言の抵抗を感じる。でも、先達たちはどんな磯釣りをしたのだろう。ヤフーオークションに出ていて、興味があったので入手したら上記のようなことだった。前回紹介の絶筆となった国民的有名人で現代でいえば阿久悠みたいな佐藤惣之助なら許されるが、こんなの本がと思った。



厚生省生活局長が序文に、「釣りは精神修養の厚生運動としての意義は深い」なんて申しわけに書いてある。あ、その日付けは16年9月だ。その時、まさかその12月に戦争が始まるとは知らなかったのだろうね。編者の益田は非常時局下、銃後の慰安として釣りが最も好適と書いている。しかし、沖釣りはすでに戦時防衛海面の指定と、漁船への機械油配給制限があって極端に狭められた。この本に船釣りがいろいろ書かれているが、大東亜戦争以来、客釣船は中止している、いつ再開されるか昭和17年2月現在未定である、とあるのが時代を示す。マダイを中心として沖釣が約三分の二ある。これが大物釣りの部分で磯釣というと三分の一。だいたい益田が書いている。

荒磯の釣り物として、メジナ、ブダイ、オキナメジナ、イシダイが挙げられ、クロダイは内湾性だから外洋ではあまり釣れないとある。それから、スズキ、ボラ、ハタ、カンダイ、タカノハダイ、タカサゴダイが挙げられている。小物はカサゴ、ベラ、カワハギ、海タナゴ、アイゴ、メバルが挙げられている。


気になるところランダムに摘出。フカセ釣りはオモリやウキをたよりにせず、糸のフケとノビのみをたよりに釣るとある。これは小生の認識と同じで何の不思議もない。というかフカセ釣りはこれ以外にあり得ない。ではウキを使った現代のメジナのフカセ釣りって何者だ。それはメジナのウキ釣りとしか言いようがないだろ、これをフカセ釣りとは何考えているのだと常々思っている。


この時代は常識だが、ナイロン糸なんてものはない。クロダイは上は人造テグスを使い、下に太物の本テグスをつなぎ、ハリスは細い磨きの本テグスを使う。投げ込み以外はリールを使わない方が一般的。木製か金属の太鼓リールが一般的だから、オモリ投げ込みでもウキの投げでも重いものでないと投げられなかった。

荒磯釣りではやはりブダイが最も一般的で基本の釣りだったようだ。ウキ釣りが一般的だが、脈釣りもある。三間以上、四間半までの延べ竿が良いと書いてある。都会の継ぎ竿は役に立たないとある。渋引き綿糸3本撚りの道糸に3匁から4匁のナツメオモリで本テグス2本撚りの6寸と9寸の2本針。これはよく分かる。松葉ピンに結べば現代のハンバのウキ釣りにそのまま引き継がれている。

ブダイ、メジナ釣りの浮釣りではリール竿をすすめている。三間でクロダイのような調子では役に立たない、とあるが。そういう磯竿って注文だろうと思うが、分からない。

この写真は戦前のペンリール、ロングビーチ60。

ここでおもしろいことが書かれている。そういう持ち合わせがない人は大型のリールとガイドを5、6個と電気工事に用いるテープを持っていくと良い。釣り場で借りた延べ竿に細い糸でくくりつけた上からテープで巻く。しかし、イシダイ釣りでは四間から五間の物干し竿のような頑丈一点張りの延べ竿とある。さらに場所によってはバカを出す。淡水釣りやっている人はバカは分かりますよね。竿の長さより長い道糸を使う。佐藤惣之助でも同じことを書いている。だから延べ竿が一般的だったのだろう。

その他、おもしろそうなところはいろいろあるが、これもいつか後日。あ、そうか、松崎明治の釣百科に触れなければ片手落ちだな。あーあ、芋ずる式に広がっていく。あんまり期待しないでください。気まぐれレベルですから論究ではありません。もっとも釣り百科の戦前版は持っていなくて、昭和36年の増補版です。序文は昭和13年初夏とありますけど。

2018年4月14日土曜日

先達の磯釣その2


惣之助は、「釣」、の巻頭の序言でこう書いている。
<<然し、釣りを諄諄説くもの、あながち釣りの名手ではない。名人はいつも沈黙しているものである。われわれはただいつもその人の間近に窺い寄って、かくもあらんかと、秘密の一切を報告するにとどまる。釣って釣って、初めて釣りというものが解った時には、もう説きたくないもので、私の釣友には、生涯アユを釣り、タイを釣っている名手がいるが、遂ぞこの人は説かない。>>

これを読み、うーむ、そうだな。残学菲才でありながらワタクシのように中途半端に説くものには、何によらず信用してはいけない。本当は師匠や先輩との間で直接の相伝というか謦咳に接し真似て盗むものである。熟成されるでも良い。。ワタクシはそうしてきた。これまで、釣技やポイントなど釣りの生情報は書かないようにつとめてきた。そういうものはいくらでもあふれているからである。しかし、これほどの情報化社会となりあらゆることが進歩、進化してきた。だがまた、知りたいのだけれど、もう一歩のところで得られない情報というものもたくさんある。

惣之助はブダイに凝ってかなり釣り歩いたそうだ。房総、相模、伊豆、紀州、八丈島、小笠原。延べ竿の三間から四間、道糸は渋染めの三本撚り。六か七匁錘で脈。浮なら三か四匁。匁と現在のオモリの号は基本的に同じはずである。釣り用錘の歴史である。ハリスは1分柄テグス一本。人によっては5厘テグス3本撚りか8厘テグス2本撚り。強度は別にして、太さは1分柄テグスは現在の10号、5厘柄は5号としてよいであろう。釣り用糸の呼称の歴史である。テグスはご存知ない人のために、野生の蛾から取れる透明な糸である。カイコから絹糸が取れるのはご存知ですよね。ものすごく細い繭糸を数本撚ったものがシルク、絹糸である。野生の蛾は野蚕、天蚕ともいう。繭糸を出す以前の内臓にある長い腺を利用するらしい。だから長いものはない。なに、絹もシルクも知らない。日本の主要輸出品だった。年寄りしか知らない。仕方がないなあ。

ブダイの釣り方は長竿釣りと流し釣りと船釣り。餌はハンバとカニ、とある。惣之助は現在とほとんど変わらない釣り場にいっている。ごく近場から根府川、真鶴、錦ヶ浦。その先の川名、富戸から八幡野。さらにその先の下田から南伊豆。そして伊豆七島まで及んでいる。

ブダイで気になる文章があった。竿は三間、三本継ぎで生地のままのものを作らせてもっていくのが理想的。うーむ。こういうのを竿師に作らせていたのだね。どんなものだろう。野布袋の印籠継ぎだろうか。戦前の普通の庶民には無理かもしれない。需要が少ないはずだから出来合いはなかったと思う。現地で借りたのが一般的だったのだろうか。そういえば、子供のころからちょいと以前まで、江ノ島あたりで竹の延べの貸し竿があったのを見ている。

「石廊崎では灯台傍の茶屋で四間の延べを借り、石廊権現の下の荒磯で、、、」と書かれている。しかし、ここまで釣りに行くだけでも庶民には無理だよ。伊東からバスに乗っていくか、修善寺からバスで下田。もうひとつは船で行くというコースがあった。現在の東海汽船の船中に昭和4年のものが貼られていて見ることができる。これはとてもおもしろい。夜9時東京を出帆、朝5時大島着。そして7時に下田着。停泊して12時に下田発、3時大島、夜9時東京である。別に下田から熱海間の各港泊まりの貨客船がある。こんなところに止まったのかと驚く。時刻表を拡大すれば見ることができる。







さて、イシダイであるが、当時一般的な仕掛けは15匁の棒錘、麻糸か太い綿糸の道糸、ワイヤのハリスで物干し竿。仕掛け図の写真には人造テグス十匁又は麻糸とあるが、人造テグスは白絹糸太番手をゼラチンで固めたもの。10匁というと相当な太さだと思うが良く分からない。オモリのようにそのまま号に該当ということはないだろう。一分柄テグスが10号の太さからいうと100号かも知れない。そんなあ、太さであって強さではないから念のため。人造テグスはごわごわして、使っているうちにゼラチンが溶けてしまうということをどこかで読んだことがある。たしか人天といわれたはずだ。



惣之助は書いている。「磯の石ダヒの竿釣となると、どんな釣人も常にあこがれてゐながら、なかなかよく釣れる機会に恵まれず、又その辛抱も出来ない、その代わり、ひと度び、石ダヒがかかったとなると、大物は一貫目もあるから、道糸やハリスを切られ、竿を折り、時にずるずると引き込まれかかって、岩角で腕を挫いたという話もよく聞くほどで、これ以上豪快なものはないほど、磯釣の王者である。」

ウーム。。道具が未開発だったというだけではなく、昔もあまり釣れなかったようだ。辛抱もできないと書いている。昔は釣れたとよく言われるが信用できないね。今時の若い者はだらしがないとギリシャ時代から言われているのだ。

磯釣のリール釣はなかったのかというと、あるにはあった。しかし、普通は国産のタイコリールでアメリカの輸入リールはごくごく少数だろう。

惣之助の本にリールの投げ方の図がある。見ると、磯釣ではなく、投げ釣りのようだ。タイコは片軸であり強い引きに対応できない。戦後、真鶴でやったという先輩から聞いた話では、タイコリールで拝み釣というスタイルだったとか。両手で拝むようにタイコリールを挟んで引きに耐える。多分、、道糸を手で引き抜いて、余分を少しずつリールに巻き込むのかな。いや、手で引き抜くことが主体だったのではないか。



写真のリールは老舗リールメーカーのシェイクスピア1935年製である。コレクションとして、昔入手したものである。普通の現代のイシダイリールの大きさである。インテリアのオブジェにも良いではないか。このころアメリカではペンリールも市場に出てきた。



これだったら立派に使える。竿師に三本継ぎのガイド付き磯竿を作らせることも可能だ。こういうものを戦前の日本で輸入してイシダイ釣りに使っていた人がどのくらいいたのか知ることはできない。日本磯釣倶楽部の大久保鯛生か三谷、長岡あたりはこういう輸入品を使っていたかもしれない。別稿でさかなちゃんブログには日本のリールの歴史を書いている。そのうち紹介しよう。

一方でフライフィッシングでは上流階級においてかなりいただろうことは分かる。

これは古いリールの片軸。戦前のオリムピックの横転リールである。


さらに続く

2018年4月12日木曜日

先達の磯釣りその1

さかなちゃんブログに書いたシリーズのエッセイをごく少し加筆して潮風会ブログに転載する。その1からその8くらいまで続く。追加でもっと増やすかも知れない。主に当時の書物から磯釣りの歴史を論評していく。



昭和17年9月発行の、「釣」という本。創元叢書、著者佐藤惣之助、定価1円80銭。数年前ヤフーオークションで入手。詩人であり作詞家。代表作は東海林太郎の赤城の子守唄、阪神タイガースの六甲おろし、人生の並木道、湖畔の宿。もっとあるけれど、省略。現代では、ちょうど亡くなった阿久悠のような存在であったのだろう。



1941年、昭和16年12月8日真珠湾攻撃。国家総動員体制で戦争に突入している時代である。鬼畜米英と叫んでいた時代。よくこんな時に。いや立派だ。非国民と言われたかも知れないが、人を殺すよりも平和な釣だ。

釣りの著作が多いことで知られている。でも年代的にワタクシより以後の世代の人であると、よほどの釣り文献マニアでないと知らないかも知れない。磯釣の大先達の一人として知っておりました。




実は、この本の完成を見ないで惣之助は脳溢血で亡くなった。1942年、昭和17年、5月15日である。惣之助の絶版となった。惣之助は日本の磯釣クラブのパイオニアである日本磯釣倶楽部の常務理事であった。同じ常務理事であった大久保鯛生が房総の試釣会があった日に房総線の車中で新聞を見て知った、と巻末の跋に寄せている。しかし、昭和17年はすでに戦争に突入している。このような本の出版が許されなくなる寸前であろう。

日本磯釣倶楽部は最近はどうなっているのか知らない。少し前までホームページもあって驚いたが消えた。消滅状態と思われる。消息が知りたい。また、そうとう昔だが、竹芝桟橋で背中に日本磯釣倶楽部の文字とSINCE1939とプリントされたヤッケだったかベストの人たち数人を拝見したことがあった。当時、全磯連から別れた日本磯釣連合の中にあって健在ということは知っていた。ただただ恐れ入りましたと敬意を表す他になかった。とにかく磯釣倶楽部の源流の源流である。

惣之助はプロの文筆家であるから、流石に文章は遅滞がない。磯釣だけでなく釣り全般に及んでいるのだが、逆に当時は磯釣までを守備範囲にする釣り人はごく少なかったはずなので貴重な文献である。房総、伊豆、伊豆七島まで釣りに行けた人がどれほどいただろうか。

また、品川沖の道了杭の釣りが大名釣りだと書かれている。一人か二人の仕立てで二間半の竿を並べて、魚は船頭が取ってくれるし、餌も付けてくれて、座布団に座って釣れる。費用は掛かるが旧江戸を偲ぶ良い釣りとある。京浜間の防波堤の釣りは、かなり盛んで大衆的で、盛夏となると300人も防波堤に上がるとある。

面白そうなところを紹介しようとしても、枚挙にいとまがない。読んで、磯釣の代表魚はどうもブダイだったような印象を受ける。七島のカシカメのウケ釣りが書かれている。ブダイのウキ釣りである。知っている人にはこれだけで何の説明も要らないのだが。現在では一割いらっしゃるかどうかくらいだろう。

カニブダイでは良いブダイ釣り場に出ると、足もとの岩に茶碗大に凹んだ穴がある。石でカニを叩いてコマセにした跡である。これはワタクシの磯釣り入門時に先輩から聞いて知っていた。

島では物干し竿のようなのを担ぎ、背に石油缶を背負い、一本のこうもり傘の骨と、弁当と水瓶を入れ一日岩礁を渡り歩き、祝儀用としてもブダイを釣る。こうもり傘の骨はカニを突いて採るため、石油缶は魚籠の代用もする。荒縄で背負ったのか、モッコのようなものの中に入れて背負ったのか。これを島ではヤギを担ぐといった。亭主がヤギを担ぐのに不平をいうような女房は断然評判が悪い。と書かれている。

ハンバやモクの採れる時季は長いウケを投げて釣る方法が先ほど触れたカシカメのウケ釣りである。ウケはウキである。カシカメはブダイである。これは七島の伝統釣りとして有名である。知る人は知る。長い棒のようなウケに仕掛けをたたみ込んで、道糸をザルに輪にして足元に置き、リールなどない時代に手で投げるのである。長くなるので後日いつか。これの現代版リール釣りはずいぶん長いことやっていない。やりたくなった。イシダイもメジナも書かれているが、これも後日、こうを改める。